谷村典子(煌羅カンナ) 日々のつぶやき

選択の自由とは何か

ホームページのブログを書きたいと思っているのですが、とにかく時間がない。本当に時間が欲しい。買えないけど。いくらマルチに動いても肉体には限界があるんだなあ(←当たり前)。やりたいことがてんこ盛りなのに本当に残念だ。でも愚痴っていても仕方ないのでやるだけやるしかない。


今日はどうしても書いておきたいことがあり。それは「選択の自由」というお話。人間には選択の自由があって、それは「善」か「悪」を選んでいるということ。今この瞬間も選んでいる。今寝ようか、ブログを書いてから寝ようかとか。何を飲もうかとか。たとえばね。


それでなのだけど、なぜ形而上学が必要かというと、形而上学を知らない人は「善」の存在を知らないままだから。そうするとほぼ「悪」を選択している状態になっている。これがずっと隠されてきた秘密の一つ。

 

たとえば職業選択の自由っていうものがある。でもそれって、A社、B社、C社から条件のいい会社を選んでいるだけで、本当の選択じゃない。だってA社がダメだったらB社かC社、または他の会社に行くわけでしょう?会社は確かに何百もあるけれど、会社は会社でしかない。そこでの仕事は自分でクリエイトするような仕事じゃない。

 

実はそうやって、誰もが本当には「選択」していない。それなのに自分は人生を「選択」していると錯覚しているんです。この錯覚から抜け出すためには形而上学の知識と、自分の意識を広げるためのアクティベーションとイニシエーションの力が必要不可欠なんです。じゃないと、私がここで書いている本当の意味もわからないままだから。

 

 

本当のこと、この世の中の真実を知って、その上で「選択」するならまだいい。それはその人の自己責任だから。でも何も知らされていないのに、そのことにも気づかず、「人生なんてせいぜいこんなもんだろう」と思って生きているとしたら。

 

だから「本当のことはここで分かるよ」と言い続けるしかない。いくら努力しても、その先には何もないことを知らないまま努力しているとしたら。どうせなら努力は実る方がいい。

 

小説「カバリスト」では、普通の人間が考える「成功」がいかに虚しいものかということを描くことができている。まだ半分(上巻)しか書いていなくて、下巻を書かないと「描き切った」とは言えないけれど、私の人生を賭けて描くテーマは決まった。

 

脚本を書いていた時も、「自分にしか描けないテーマを持て」とずっと言われてきた。それがなんだかわからずに形而上学を学び、やっと永遠のテーマを見つけた。それは「人間の意識がいかにピントがずれているか」ということ。本当のことを知らないまま生きている。99パーセントの人が。

 

生命は永遠のものだということすら気付いていない。私もモダンミステリースクールで学ぶまでは本当には理解できていなかったしね。アクティベーションで「意識」という固い甲羅がバリッと割れて、イニシエーションをどんどん受けて波動上昇して、やっと理解できるようになってきた。

 

本当のことを知らないと人生は始まらない。始まっていない。ただベルトコンベアーに乗っかって、肉体が死を迎えたら終わりだと思って生きている。本当の人生は毎日一分一秒が感動の連続。本当にすごいことが起き続けているのだ人生は。それは毎分「善」か「悪」を選択しているから。「善」を選択するとはどういうことか。そのことがわからないと人生は味わい深くはならない。

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