朝起きて、調子悪かったので病院の予約をリスケ。調子悪くて病院に行けないってどうなのよ。
それで少しゆっくりして、ちょっとジムに行って、馴染みのおばさま方とギャグをかまし、大親友マトゥ(アフリカ出身)ともちょっと会えて。
帰りにインドカレー屋さんでカレーをテイクアウトして帰りました。月曜日まで留守にするので相方とお家ランチしようと思って。
そう、わたしって優しいのよー。で、わたしが優しいと相方も優しくなるのよー。
ちなみに、猫も優しくすると優しくしてくれるのよね。愛って返ってくるものだなあとつくづく。まずは損得勘定せずに惜しみなく愛をそそぐことが大事だな。
さてそれで、愛する猫たちと相方とバイバイして、立川で一旦下車。スタバでドリンクをサーモスに淹れてもらい。
あと、あれこれ買って、特急あずさで上諏訪まで行って、そこからローカル線でトコトコ伊那北までやってきました。
いつも新宿バスタから高速バスで長野に来るのでローカル線は新鮮だったなあ。
夕方だったから高校生がたくさん乗ってきてね。東京だと高校生が車両いっぱいになるってことないから。
それである女子高生が「わたし、早くここから出ていきたいんだよね」とか言ってる。きっと卒業後の進路の話なんだろうなあ。
わたしは伊那に住んだらどんな人生なんだろう(って考えるのがクセなのです)なんて妄想を膨らませていたけど、そうか、出ていきたいのか。
この前同窓会があって、久しぶりに高校生の自分を思い出したりしていたから、そんなもんかもねえなんて心の中で同調したりして。
わたしは小学校の時に4年間ドイツに住んでいたから、高校生の頃は、一生日本に住むなんて考えられない!なんて思ってた。
あのころは世界を飛び回るような活躍をするつもりだった。28歳の時1年間ヨーロッパを放浪はしたけど、結局海外に住むことはなかった。
今は住みたいとは全く思わないし、わたしには向いてなかったんだと分かる。
わたしの母はちょっと変わってて、父のドイツ赴任が決まった時に、わたしをドイツ人学校に入れようと決めたのね。
普通は日本人学校に入れるものなのよ。当時は帰国子女枠とかなかったし、日本に帰ってきた時に受験が大変になるから。
そこで母は自分の母校の雙葉小学校を急遽受験させることに決めて、わたしは突然塾に入れられてね。
たった半年で雙葉小学校を受験し、奇跡的に合格。当時でも倍率6倍でかなりの難関でした。
そして小学校に入学して1ヶ月で休学してドイツに行ったというわけ。当時の校長が母のかつての担任だったこともあって、個人的に頼み込んだらしい。
母強し!!!だって、入学してたった1ヶ月でドイツに行っちゃうってとんでもなくないですか?
まあそれで、めでたくドイツではドイツ人学校に入りました。もちろん最初はドイツ語なんてチンプンカンプンで、先生が何を言ってるのかさっぱりわからない!!!という記憶は鮮明に覚えてる。
最初は学校に行くのがイヤで、朝「行ってきまーす!」と家を出て、近くの公園でサポってたという。
ドイツの小学校は低学年は午前中で終わるので、2−3時間潰せばよかったのよね。でも学校から連絡がいってバレちゃった。
当時、ドイツの子供たちは日本のこと知らなかったし(三国同盟ってウソなん?)日本人がめずらしかったから、大変でした。
連合赤軍が世界を恐怖に陥れてたから、日本人はテロリスト扱いだったしね。どえらい時代だったな。
上級生たちに捕まって池に放り投げられたり(危うく死ぬところよ)、電車に乗ると珍しがられて人だかりができたり。
ほんとにドイツの4年間は人生で最も強烈な体験でした。それで日本に帰ったら、今度は「日本語が変」と言っていじめられたんですよね。
結局「日本人」っていうだけでドイツでも日本でもイヤな目に遭って、だから日本人である自分がイヤでイヤでね。
人間ってなんだろう、国ってなんだろう、人種ってなんだろうって、6歳から悩んでいたというわけです。
だから本を読んだり、人間を研究したりした。人間がどんなに酷いことができるのか、知りたかったのよね。
わたしの人生の方向性は6歳の時に決まったようなもの。母の策略というか、母のおかげだな。6歳の子供に冒険をさせた母はすごいと思う。
ドイツでも林間学校に3回も入れられて、夏休みとか春休みの間中、知らない子どもたちと寮生活をして、その間、両親はフランスやスペインを旅行していたという。
ものすごく不衛生な合宿所で、頭にシラミが湧いて丸坊主にされたりとかね。戦争中の子供みたいだった。
母は「面会に行くから」って言ってたけど、一度も来なかったし。1ヶ月も共同生活するとみんなで仲良くなったり、それなりに楽しかったけどね。
小学校3年生でボーイフレンドもできたり。ドイツ小学校は結構カップルで行動するのよ。日本じゃ考えられないよねえ。
でね、後で聞いたんだけど、わたしのボーイフレンドたちが正装して両親と一緒にうちに来たことがあるんだけど(3人ぐらい)、なんと「将来ノリコと結婚させてくれ」って結婚を申し込みに来たんですって。
わたし、実はドイツではモテモテだったという。人生で一番モテたのが小学校時代。ちょっと早すぎじゃないですか。もったいない。
帰国が決まった時も、「ノリコを養女にしたい」というドイツ人からの申し込みがいくつかあったそうです。
そういうのもあったから、わたしは日本じゃなくてドイツ人になった方がいいんじゃないかとすら思ってました。
今でも、もしあの時にドイツ人の養女になってたらどんな人生だったのかなーと思うことがある。
そういうのもあって、海外で生きる決意をした人はすごいと思うんです。わたしにはやっぱりできなかった。なんだかんだで、日本が好きなんだなあ。
長野の女子高生もこれからどんな人生を送るのかなあと。彼女がわたしの年齢になるころ、わたしはもうこの世にはいないわけだけど。
あの子が良い人生だったと思えるように生きていって欲しいなあ。他人の心配している場合じゃないんだけどさ。
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