久々に映画を見ました。映画館に行くという時間がなかなか作れないのですが、作るからには徹底的に味わいつくそうということで、一日縄文ツアー敢行(笑)。こういう時はどんなに暑くても馬力が出ちゃう。
「縄文にハマる人々」ツアー
映画をみる 👉 現代の縄文土器ブームの先駆けとなった岡本太郎記念館に立ち寄る 👉 國學院大學博物館の縄文展をみる 👉 ついでに向田邦子資料館をみる 👉 ついでにアフリカショップに立ち寄る
という、独断と偏見とやる気に満ち満ちたツアーを敢行してきました。
さて、「縄文にハマる人々」は縄文について色々な認識を持つ人々がたくさん登場します。それぞれの視点から「縄文」を切り取るのですが、一番感銘を受けたのは
そこに答えを見つけない ということ。
「理由」というのは常に後付けで、縄文時代になぜあんなにすごい火焔土器が作られたのか、火焔土器にどういう意味があるのか、ということは縄文時代に生きた人にしか分からない。1万数千年も経っている現代から理解することなんてできない。
理解しようとする態度が傲慢だ、ということ
火焔土器の模様が何を表しているか、とか、何に使われていたのか、というのは「推論」に過ぎず、どれも答えではないという意識をわきまえないといけない。その上で、縄文時代の火焔土器を見るだけで誰もが打ちのめされるような、ものすごいパワーがあるわけです。
とにかく縄文の人々の何がすごかったかというと、「そこに何かの意味を見つけようとしない」
ただあるものをあるがままに受け入れ、表現する。子供の純粋な魂のままで生きていたようです。どんな教えも制約もない、社会的ルールも存在しない。自分が受け取るインスピレーションだけで生きる。
だから土偶がよく「宇宙人じゃないか」と言われるのも、もしかしたら縄文時代の人々は宇宙人と交信していたのかもしれない。でもそんなことも彼らにとっては特別なことでもなんでもなくて、ただ感じ取ったことをカタチにしていただけなんですね。
つまり、自分の内側100パーセントで生きていた。自分が神だった。そこから後世の「八百万の神」の信仰に繋がるわけですが、縄文時代はわざわざ宗教にするまでもなかった。それぐらい自然に神として生きていた。
そして弥生時代から「退化」が始まるのですが、それは大陸から「文明」や「概念」が入ってきて、人々の意識が変わってしまうんです。便利なものや決まりごとに頼るようになった。自分以外の、他者の力を頼るようになった。
日本人は世界的に無宗教と言われる民族ですが、もともと自分が感じる「神」と共存して生きていた。縄文時代は1万年もそういう生き方が続いた奇跡の時代だったんですね。例えば石があったとすれば、それを自分の使いやすいように「加工」するのではなく、石の特徴を生かして使うことを考えた。
その結果、現代のアートよりも最もアートな火焔土器が生まれます。なぜあんな形になっているのか、なぜあんな模様がついているのか。ただ感じるのは、火焔土器を作った人は100パーセント喜びに満ちて創作したのだろう、ということ。アデプトのヒントもここにあります。人間が100パーセント自分の力で生きる時に永遠に残る人生をクリエイトする、ということ。
そして、1万数千年も「自分で生きる」という生き方を忘れてきた私たちは、原点に戻るために通過儀礼の力が必要で、それがアデプトプログラムなのだと。
だから火焔土器を見たときに全身の血が逆流するほどのショックを受けたのだと思います。
MMS公認ガイド 谷村典子
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